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 米国訪問記
  はじめに
今回のPCI訪問記は米国です。今まで、米国の話がこの訪問記の中で出てこなかったことを不思議に思われた方々も多いと思います。最初の訪問記から既に何回も訪問記をUploadしていますが、この間米国を訪れたことが無かった訳では決してありません。しかし今までは、米国の学会で発表したりライブデモンストレーションのFacultyとして招聘されたりしただけでしたので敢えて掲載しませんでした。米国は日本と並んで外国人に対する医師免許の発行に対して非常に厳しい国です。昔はそんなでもなかったようですが、米国でも医師過剰傾向となってきたため、ここ10数年間は非常に厳しくなり、日本人の医師が米国に出かけても医療行為をすることはまず不可能でした。日本から米国には毎年たくさんの医師が留学していますが、そのほとんどは患者さんに対して直接的な医療行為を行うことはできず、傍観者としてそれを見学するだけです。そして、米国人があまり行わない研究に従事しているのが現実です。

しかし、ここで宣言します。私は、今回その厳しい米国において、ついに私自身の手により、PCIと冠動脈造影を行いました。それも二日間にわたり合計6名の患者さんに対してです。しかもその一日はライブデモンストレーションという公開された場においてです。そして、その場所というのが米国の中心、いや世界の中心とでも言うべきニューヨークにおいてです。これがどれ程画期的なことか、皆様方分かって頂けるでしょうか?


世界貿易センタービル跡地

Battery Park
今回の訪問記は2004年3月3日(水曜日)に成田空港から12:30発のJALニューヨーク行き直行便で出発した時から始まります。ニューヨークまでは直行便でも12時間以上かかります。もちろん、この飛行時間は強い偏西風の影響で随分と変わりますし、従って行きの便は予定到着時刻よりもこの時期早く着きます。日本との時差は14時間ありますので、ニューヨークJFK(John F. Kennedy)国際空港に到着したのは、現地時間3月3日の朝10:00amでした。あのSeptember 11のニューヨークですから入国審査にとてつもない時間がかかることを予想していました。しかし、この予想に反してほとんど待たずに入国することができ、何だか呆気にとられました。多分これは、東京からのJAL直行便だからだったと思います。予想ですが、他の国々からの便であれば厳重な入国審査が行われたのではないかと思います。こんなところでもイラクに対する自衛隊派遣の影響が出ているのかな?と、思いました。
今回のニューヨーク訪問は記憶を辿れば僕にとって多分
4回目ぐらいですが、12年振りのことです。前回訪れた時に存在していたWorld Trade CenterビルはあのSeptember 11以降、消滅してしまいました。そしてそれと共に多くの方々の命が失われました。今、その跡地には高層ビルディングの間でポカンと巨大な空間が残ります。ここは”Ground Zero”とも呼ばれています。あの事件以降、Battery Parkから自由の女神像のある島に渡る遊覧船も安全上の理由で、ずっと閉鎖されていました。それも私が訪れたほんの1、2週間前に再開された、ということでした。ニューヨークはこの季節未だ肌寒い気候でした。


到着した日の昼は、今ニューヨークで最も評判になっているレストラン「ノブ」を訪れました。その看板はいかにも洒落ています。この店は、俳優のロバート・デニーロがオーナーの日本食の店ですが、ニューヨークでディナーの予約をとるのが最も困難とされているレストランです。私たちは、1:30pmぐらいに訪れたため何とか座ることができました。その時刻でも店は満席であり、しかも驚くべきことに客用の4人掛けテーブルを一つ潰して、そこに4人の電話オペレーターが座り、予約電話を受けていました。しかもその電話がひっきりなしに鳴り、オペレーターは休む間もないようでした。何でも電話予約は5:00pmになると強制終了し、それ以降は一切の電話予約をも受け付けなくなるそうです。そして、そのオペレーターが座っていたテーブルも夜は客席となるのです。料理は和食の基本をしっかりと押さえ、しかもそれにフランス料理のエッセンスを取り入れたものでした。私たちは、昼の部の終わり3:00pm過ぎまでいましたので、最後に店内の様子を写真に撮らせて頂きました。



遅い食事でお腹が一杯でしたが、この日はCoppola先生の右腕のKwan先生お知り合いの中華料理のお店で7:00pmからDinnerに招かれていました。

Nobuの斬新な看板
Nobuの店内
この席ではCoppola先生やKwan先生、それに他のスタッフの先生方、我々そしてPatel先生達が参加されました。メンバーは多岐に渡るため、Vegetarian、Sea foodにアレルギーのある方、鳥が不可の人(これは何を隠しましょうか、僕のことです)など多くの人たちがおられるのでメニューを考えるのはとても大変だったことでしょう。

この中華料理の店はニューヨーク中華街のど真ん中にあり、何と日本でも有名な香港から進出したあの店、「福臨門海鮮酒家」でした。名前の如く、Sea foodがメインであり、店内には生簀に生きた魚がたくさん泳いでいました。


 3月4日(木曜日)

アメリカの病院は朝、とても早くから業務がスタートします。カテ室も7:30amからスタートです。ニューヨークのマンハッタン島は世界経済の中心ですが、南北18Km、東西5Kmぐらいの島です。この島に入るにはフェリー、橋あるいはトンネルしかありません。Coppola先生は郊外に住んでおられるので、毎朝5:00amに自宅を出て、自ら車を運転して出勤するそうです。その時刻に自宅を出られれば1時間もかからずに病院に到着できるのですが、仮に自宅を5:30amに出るとトンネルや橋の所で大渋滞に巻き込まれ、病院に到着するのは8:00amを回ってしまうそうです。そんな状況なので夜が遅くなるとよく病院に泊まられるそうです。実際、僕が滞在していた3月3日からの2泊は病院に泊まられたようでした。一方、Kwan先生は我々が宿泊したRitz Carlton Battery Parkに併設して建っている高級マンションに住まわれているので、朝の通勤は自家用車で15分もかかりません。

SVCMCの救急外来入り口
Saint Vincent’s Chatholic Medical Center (SVCMC: セント・ビンセント・カトリック病院)はマンハッタン島南西部に位置する中心病院です。この病院はその名の通り、カトリック系の病院であり、ベッド数は800あります。マンハッタン島には、これ以外にもMount Sinai (マウント・サイナイ)病院、Lenox Hill (レノックス・ヒル)病院、New York University (ニューヨーク大学)病院、
Cornel University (コーネル大学)病院などの世界に冠たる
大病院が存在します。SVCMCはWorld Trace Center Building
(世界貿易センタービル)から最も近くに存在したメディカル・センターでしたので、あのSeptember 11の時には、一番重要な救急病院となったそうです。あの時には、Kwan先生はじめ全ての職員が全員出勤し、何日間もぶっ通しで働いたそうです。しかし、Kwan先生は言っておられました。「救急外来に降りて行ってもとても空しく辛かった、運ばれてくる患者さんはどちらかしかいなかった。片方は既に息絶えていて、片方は粉塵を吸い込んで咳き込むだけの軽い状態の人々で、本当に救命処置が必要で救命できた患者さんはいなかった」。

Coppola(John Coppola)先生とKwan(Kwan Tak-We: 関 徳維)先生は名前で明らかなようにそれぞれイタリア系と中国系のアメリカ人です。ニューヨークは米国でも代表的な移民の街であり、たくさんの民族の人々が同化して住んでいるアメリカ合衆国の中でも代表的な街です。どんな国から来た人々でも能力次第で社会の中で上に昇っていけるのだそうです。ニューヨークの人々はそのようなニューヨークをとても誇りに思っています。そして皆、ニューヨーク・ヤンキースとニューヨーク・メッツを熱狂的に支持し、二人の松井選手(それぞれBig MatsuiとLittle Matsuiと呼ばれています)も大変な人気です。Coppola先生は病院の副院長をされており、また循環器部門のトップの方です。Kwan先生はCoppola先生の右腕としてカテ室の代表となっている先生です。このSt Vincent病院の循環器部門のトップはこれまであの有名なAmbrose先生でした。Coppola先生はその後を継いでいます。St Vincent病院はカトリック系の民間病院ですので、病院経営は重要な要素です。病院の収入の中でやはり循環器部門が最大の収益を上げているのだそうです。また、この病院の循環器にはニューヨーク最大の循環器トレーニング・コースが設定されており、Fellowは何と22名もおられました。

セント・ビンセント・カトリック
マンハッタン島にはたくさんの有名な病院があり、その全てが経皮的冠動脈インターベンション(PCI)と冠動脈バイパス手術(CABG)を行っています。従って、病院間では患者さんの獲得のための大きな競争が存在します。今回Coppola先生は、St Vincent病院において、他のニューヨークの病院が行っていない手技、経橈骨動脈冠動脈インターベンション(TRI: Transradial Coronary Intervention)を広く行い、これによって忙しいニューヨークの患者さんに対して、より良い医療を提供すると共に、St Vincent病院により多くの患者さんを集めようとして、このライブデモンストレーションを企画されました。Coppola先生、Kwan先生とは「インド訪問記II」に既に記載しておりますように2003年11月14日15日にインド・アーマダバードのKrishna Heart InstituteにおいてTejas Patel先生と共にお会いしております。また12月14日15日に開催した鎌倉ライブデモンストレーションにおいてもCoppola先生にはFacultyとしてご参加して頂いております。

朝7:15amにKwan先生がホテルのロビーに現れ、私たち(私、部下の田中慎司先生そしてTejas Patel先生)はKwan先生の運転されるベンツで病院まで案内されました。途中で必ずGround Zeroの横を通過します。病院はグリニッジ・ビレッジの北に位置し、ホテルから3Kmぐらいの場所です。


カテ室は全部で4室あり、インターベンションではその内の3室を用いていました。マシンはGEのものであり、決して良い画質ではありません。もう10年以上前のマシンだと思います。ただ、流石に記録としてシネフィルムは用いておらず、かといってオンラインでもなく、CDを用いていました。この日は全部で23症例の患者さんが準備されていました。ここでは患者さんは全て朝病院に来られ、診断造影を行い、PCI可能な病変があればそのままPCIを行ういわゆるAd hoc症例がほとんどです。診断カテーテルのみであれば、当日昼あるいは夕方には退院し、PCI症例であれば、翌日退院されるそうです。年間のPCIは2,500例、PCIを含めた心臓カテーテル総数は年間5,000例ぐらいだそうです。1/3ぐらいの患者さんは外来でRIやトレッドミル心電図が行われており、明白な虚血が既に証明されている患者さんですが、中には土地柄なのでしょうか、突然前日に外来に来られ、「明日の夜には戻らねばならないから、今すぐ冠動脈造影を行ってくれ」という患者さんも多いそうです。このような患者さんは社会的に重要なポストの方々が多いそうです。

橈骨動脈の穿刺
僕が行った第一症例は40歳台のヒスパニック系の男性患者さんでした。既にFellowの一人が橈骨動脈穿刺部にたくさんの局所麻酔をしていました。「しめしめ、既に穿刺が済ませてあるや」と、思ってカテ室内に入ると、何と彼らは僕の穿刺をずっと待っていました。そこにある橈骨動脈用のシースは悪評高いJ社の4Fr ”Transradial Kit”でした。このキットは穿刺針が22Gのオープン・ニードルであり、同梱してあるガイドワイヤーは硬い22Gのスプリング・コイル・ワイヤーなのです。またシース先端の切れも非常に悪いものであり、このような劣悪な製品が世の中に医療用器具として存在することがとても僕には信じられません。既に長い待ち時間のために橈骨動脈拍動は微弱となっておりました。心を決めて、その劣悪なオープン・ニードルで穿刺を試みましたが、かすりもしません。ここで大きな決断をしました。第一症例でミスは許されない。そのように考えて、日本から5セットのみ持参したいつも用いている貴重なT社のラディアル用6Frシース・セットを一つ開封しました。ここで更に大きな決断をしました。このまま自分がこの普段使い慣れているT社の20G穿刺針を用いて穿刺を再び試みるか、あるいはです。そして決断しました。僕は今回同伴した田中慎司先生に穿刺を代わってもらいました。彼の橈骨動脈 穿刺は明らかに僕の穿刺よりも上手であり、成功率も高い筈です。彼は見事に一発で穿刺に成功し、後は少し小さなトラブルがありましたが、結局この症例は右冠動脈にきつい狭窄があることが判明し、そのままPCIに移行しました。やはりFellowは自分でPCIをやりたがり、僕にカテーテルを渡したくない雰囲気でした。当初は、自分でもどこまでやって良いのか分からず、そのまま見ていましたが、結局彼はRCAにガイディング・カテーテルをdeep engagementすることができず、ステント(勿論Cypher)植え込みがうまくいきそうもなかったため、無理やり、”I will take it.”と宣言し、カテーテルを取り上げて、さっさと終了しました。
病院内でのインタビュー
このことがあったのでCoppola先生に、どの程度自分が行っても良いのか分からない、という話をしたと、Coppola先生は明確に「何時も湘南で行っているように全て行ってくれれば良い。但し、易しそうであれば、Fellowに手を出させて欲しい」と、答えられました。このため、次の症例からは基本的に全て自分で行うようにしました。二例目はKwan先生の症例でした。患者さんは中国系アメリカ人でした。この症例はKwan先生が見事に穿刺を行われており、僕はただ4Frカテーテルで冠動脈造影を行うだけでした。患者さんは有意病変を持たず、単なる左室肥大のみでした。次のPCI症例は3枝病変でした。この症例に関しては、自ら橈骨動脈の穿刺を行いました。橈骨動脈穿刺後には、またまたさっきのFellowがやりたがり、ガイディング・カテーテルを手放しませんでした。LAD mid portionの病変が最初のターゲットでしたが、僕はEBU 3.5を選択しました。しかし、このFellowはなかなか左冠動脈にガイディング・カテーテルを挿入できず、そうこうする内に多分空気を打ち込んでしまったのでしょう、下壁誘導でSTが上昇し、血圧低下と徐脈を来たしました。この段になっても彼は未だ続けようとするので、再び”I will do it.”と、宣言しガイディング・カテーテルを取り上げ、その後はすいすいと何時も湘南鎌倉総合病院で行っているようにスピーディーにLADと右冠動脈にそれぞれひとつずつのCypherを植え込んで結果的に何事も無く終了しました。
ディスカッション中1
ディスカッション中2

一つあっと驚くことに気づきました。何と米国ではMonorail CypherはG社のGeminiというかつてMonorail balloonに載っているのです。ちなみにこの時僕についたFellowは10年前に母国を出てアメリカに渡ってきたルーマニア出身の医師であり、ニューヨークに来る前にあの有名なカナダのモントリオール心臓病センター(Montreol HeartInstitute)でPCIのトレーニングを2年間に渡って受けたそうです。前日のディナーではただ一人、「TRIよりもTFIに方が良い!」と、言っていた先生です。しかし、そんな彼も実際のTRIを目の辺りにしてすっかりRadialistに転向してしまいました。何でも4月の始めにルーマニア政府の公式招待でCoppola先生のチームがルーマニアにPCIの指導に行かれることに決まったそうですが、僕もTRIの指導のために参加することを強く誘われました。日程調整を試みましたが、とても今回は時間が無いので残念ながら辞退しました。

二階のカテ室から三階に上がってカンファレンス・ルームでバイキング形式のインド料理を昼食に摂り、それから図書室でインタビューのビデオ収録を行いました。僕が真ん中に座り、両側にCoppola先生とPatel先生が座り、TRIが何故優れた方法かを患者さんや医師に分かりやすいように説明しました。
この間、これからどうやって米国でTRIを普及していくのが良いのか、何が問題なのか、などについてCoppola先生、Patel先生、あるいはその他の先生方と真剣な議論を繰り返しました。

この日僕が行った最後の症例は、梗塞後狭心症を伴う二枝病変でした。この症例はさっきのFellowが僕の見ていない所で橈骨動脈の穿刺を数回試み、挙句の果てに僕がカテ室に入った時には橈骨動脈拍動が完全に消失していました。仕方なく、TFIで行いました。右冠動脈の病変は#2で99%あり、#1入口部にも75%病変がありました。このため、我々はこの両者に対してそれぞれCypherステントを植え込むことにしました。これは問題なく終了し、継いで左回旋枝の病変に移ることも考えたのですが、高いCypher(その価格は現在St Vincentで3,000US$程度)を二個使用し、DRG-PPS (Diagnosis Related Grouping ? Prospective Payment System)の下では既に赤字医療となっているので、これ以上の治療は行いませんでした。何れにしてもこの患者さんの主要病変は治療されたことになります。

SVCMC内のチャペル
St Vincent’s Catholic病院はカトリック病院ですので、院内には荘厳なチャペルがあります。もともとイタリア系の移民の手によってカトリック教会がこの地に建てられ、その教会を取り囲むように次第に病院が建設されて現在のSVCMCとなったそうです。
僕が手技を行っている間にも他のカテ室で平行して、Patel先生あるいはCoppola先生達が冠動脈造影ないしPCIを行っていました。結局この日僕自身は、3例のPCIと1例の診断カテーテルを行い、合計3例のTransradial approachを披露しました。そして、明日のライブデモンストレーションに備えて我々は3:00pm前にはおいとまし、ホテルに戻り暫く休憩を取りました。何しろ、鎌倉とニューヨークの時差は14時間ありますので、この頃には相当時差ぼけで辛くなっていました。ちなみにデジカメで撮影した写真に表示されている日付は日本の日付ですので、撮影の時簡帯によっては一日ずれて表示されています。

マンハッタン島の地図
この日の夕食はCoppola先生のご招待で、病院から通りひとつ外れたばかりの西13番通り6番街と7番街の間にある”Gonzo”というイタリア料理レストランで夕食をとりました。この店は入り口も見つけにくく、またガイドブックにも載っていない店ですが、イタリア系のCoppola先生が薦めるだけあり、今まで食べたどんなピザよりもおいしいピザが前菜として出てきました。ニューヨークで本格的なイタリア料理を食べたければ、絶対にこの店がお勧めです。
ちなみにマンハッタン島を南北に貫く大通りは東側から西側にかけて10本あり、東側から順に数字で1番街(1st Avenue)から10番街まで名前がついています。そして、中央を走る大通りが有名な5番街です。このAvenueに直交し、東西に走るのが通り(Street)であり、南から北にかけて順番に1番から149番まで番号がついています。大体Street番号の違いにして10で1Km程度と考えれば良いようです。つまり100m毎にStreetがあることになります。これがニューヨークにおける1ブロックです。但し気をつけねばなりません、1st Streetはマンハッタン島の南端(丁度私たちが宿泊したBattery Parkの辺り)から北に2Kmぐらい上がった所から始まるのです。ではこの1st Streetの南側にあるStreetは何でしょう。もちろんいくつもStreetが存在しますが、その中にWall Streetが含まれます。そう世界経済の中心、ニューヨーク証券取引所がある所です。有名なCentral Parkの南の境は59th Streetです。このように考えるとマンハッタンの地理は意外と簡単にわかるようになります。本来はこの東西南北に走る道の番号だけで座標の同定ができる筈ですが、もっと分かりやすいように、5番街より東側はEast、西側はWestと表現します。従って、SVCMCは丁度、West 12th Street, 7th Avenueにあることになります。










 3月5日金曜日

この日は、いよいよライブデモンストレーションでした。再びKwan先生のベンツに乗って、朝7:15amにホテルを出発し、まず病院4階のCoppola先生のお部屋で術衣に着替えてから3階のカンファレンス・ルームに入りました。カンファレンス・ルームの向かいには外来患者さん達のためのスペースがあり、この日はそのスペースとカンファレンス・ルームにニューヨークの他の病院から興味のある循環器医師を招いてカテ室からライブデモンストレーションを行いました。一人の先生はわざわざ離れたペンシルベニアから出てこられました。

外来スペース
この外来スペースでコーヒー、ジュース、パン、フルーツなどからなる朝食を皆でつまんでから、いよいよ8:00amにCoppola先生による私とPatel先生の紹介が行われました。
最初の紹介

この後、Patel先生によるTRI/TRAの入門的な講演が30分かけて行われ、その間に僕は2階のカテ室に降り、患者さんのセットアップを行ってからじっと待機していました。患者さんは45歳くらいのヒスパニック系の男性であり、やはりこの日の朝自宅から病院に来られ、そのままカテ室に入りました。とても患者さんは緊張していましたので、
”Don’t worry. No problem.”などと声をかけました。僕は清潔になったまま、じっとカンファレンス・ルームからの呼びかけを待ち、いよいよ橈骨動脈穿刺からライブ中継しました。

穿刺は一発で入り、難無くシースを挿入したのですが、何と腕頭動脈が大動脈弓の遠位より分岐する非常にやりにくい症例でした。4Fr Judkinsでは左冠動脈に全くengageできないため、AL-1に交換しましたが、カテーテル操作中に容易に下行大動脈にカテーテル全体がいってしまいます。内心では、「これは相当まずいぞ、初めてTRIを見る米国の先生方に、こんなに難しいことを見せる訳にはいかない。その上仮に、右橈骨動脈より造影できず、大腿動脈穿刺という事態になったらみっともないし、もう橈骨動脈アプローチの米国での成功は終わりだ」などと考えながらも、表面的には平然と操作を続け、また会場からの呼びかけに対しても冷静に応答しました。最終的には、AL-2を用いて左冠動脈の造影を行いました。左冠動脈はとても太く発達していましたが、何処にも病変はありませんでした。このAL-2で右冠動脈の造影を試みましたが、再びカテーテルは下行大動脈に行ってしまうため、JR4.0に変更し、何とか右冠動脈の造影も終了しました。どちらの冠動脈も正常であったため、橈骨動脈穿刺部をTRバンドで止血し、患者さんにすぐにカテ台の上に座って頂き、終了しました。
CTOの講演中
ライブ症例中
ライブ中に皆でディスカッション
PCIの解説

何とか一例目を恥かかずに終了し、すぐに3階のカンファレンス・ルームに赴き、そのままTRI for CTO lesionsの講義を行いました。
この後、僕は再びカテ室に戻り、ライブのハイライト症例であった、左冠動脈前下行枝(LAD)の慢性完全閉塞病変(CTO)に対するTRIを行いました。
患者さんは75歳の白人男性で、1997年に不安定狭心症のためセント・ビンセント病院において大腿動脈より冠動脈造影を受けられました。その当時から大きな第一対角枝(D1)分岐直後でにおいて左冠動脈前下行枝は完全閉塞していました。そして、この対角枝起始部に90%狭窄があり、その病変による不安定狭心症だったのです。
この時、患者さんはLADからD1に向けて、Palmaz-Schatzステント植え込みを受け、その後全く症状無く経過していたのですが、本年の1月になり再び不安定狭心症となって二回目の冠動脈造影を受けました。そして、右冠動脈mid portionに90%狭窄が認められ、ここに対してCypherが植え込まれました。これで症状は全く消失しましたが、今回僕が訪れる、ということでこの症例のLADにあるCTOがターゲットとして選ばれました。従って、このCTOは明らかに少なくとも7年以上経過したものであり、しかもPalmaz-Schatzステントによって完全に入り口が塞がれている(jailしている)ものでした。
この症例に対しても、自ら橈骨動脈の穿刺を行い、6Frのいつも使いなれているT社製シースを挿入し、6Fr XB3.5を左冠動脈に挿入しました。僕は、Cross-itで通過するという確信があったので、特殊なガイドワイヤーは使用せずにカテ室内にあったCross-it 200を用いて、bare wireでステント・ストラット越しにガイドワイヤーをLADのCTO末梢に挿入しました。Coppola先生は、僕がこの手技を行う前に「この症例は時間がかかるし、多分うまくいかないだろう。もしもガイドワイヤーが通ったらば自分のパンツを食べてみせるよ」と、言っておられましたので、実際に2,3分でガイドワイヤーを通過させたのを見て、びっくり仰天されていました。次にPalmaz-Schatzステントのステント・ストラットを拡げるために、Maverick 1.5mmで拡張しました。バルーンは流石に通過しにくく、一瞬Anchor balloon techniqueを披露することも頭をよぎりました。首尾よく1.5mmのバルーンで拡張できた後、念のため大きなD1にBalanceワイヤーを挿入、Maverick 3.0x8mmでさらにステント・ストラットを拡張しました。
そして、CTO部分を同じバルーンを用いて低圧で何回かに分けて拡張した後、D1分岐直後からLADのCTO部分にかけ、Multi-link Vision 3.0x18mmを留置しました。ステント・ストラットを超えてCypherが挿入できるとはとても思いませんでしたので、コバルト・クロミウムで出来たこのVisionステントを選択しましたが、その通過性の良さには本当に驚きました。Vision deliveryバルーンをそのままLAD向きに用い、D1には先ほど用いたMaverick 3.0x8mmを挿入し、最後にLADとD1の分岐部に同時Kissing balloon inflationを行って終了しました。6Frのガイディング・カテーテルを用いて同時Kissingを行ったことにも皆驚かれていました。結局、この症例で用いたのは、ガイドワイヤー2本、バルーン2本、ステント1本のみであり、DRGの米国においてTRIがいかにcost effectiveであるかを良く証明できたことになりました。勿論、患者さんはそのまま車椅子でリカバリー・ルームに帰棟し、その日の内に退院することが可能でした。

手技の終了後、再びカンファレンス・ルームに戻り、カテ室から投影された画像を見ながら手技の細かい解説を行いました。

僕はその日の夜にNew Orleansで開催されたある重要な会議に出席する必要があったので、この症例を終えてから病院を後にしました。僕が出発した後は、Patel先生がライブを行われた筈です。

別れの誓い
病院を離れる時には、皆で今後米国においてTRIを根付かせるためにがんばることを誓い合いました。ちなみにこの写真は左からTejas Patel先生、私、John Coppola先生そして、SVCMCの冠動脈インターベンションのトップであるBhambhani先生です。

ニューヨーク近郊には主として国内線に用いられているラ・ガーディア(La Guardia)空港があります。そしてJFK国際空港の他にももう一つの大きな国際空港があります。それがニューアーク(Newark)国際空港ですが、そこからContinental航空のNew Orleans直行便に乗り、その日3月5日の夜6:15pmにNew Orleans空港に到着しました。New Orleansではこれからアメリカ心臓病学会(ACC)が開催されるため、多くのヨーロッパの循環器医師がニューヨーク経由で同じ飛行機を用いてNew Orleansに入るため、飛行機は満席であり、色々な外国語が飛び交っていました。
到着してすぐに僕はDESに関する非公開の会合に参加しました。日本人の参加者は僕だけですので、もちろん英語しか話しません。その会合での真剣な討議を理解し、質問に答えていくことはものすごく大変でしたが無事にやり終えました。

ACCでは3月7日(日曜日)の午前・午後それぞれ1例ずつTRIの症例報告を行いました。これらの症例は去年の7月小さいライブ・トランスミッションを行った時に収録したものであり、午前中はTRIで急性心筋梗塞に対してPercuSurgeによるDistal protection下でステントを右冠動脈に対して植え込んだ症例、午後は3枝病変の女性の右冠動脈のCTO病変に対してTRIでステントを植え込んだ症例でした。何れの発表もそれぞれ15分間ずつでしたが、質問にも難なく答えることができ、無難に終わることができました。翌朝は朝7:25am発のUnited Airlineシカゴ行きの便に乗り、シカゴ・オヘア国際空港で東京行きのJAL便に乗り換え、9日(火曜日)の夕方日本に戻りました。

New Orleans空港のSecurity checkはとても厳重です。靴をチェックすることは勿論のこと、ベルトも外され、ズボンのフックも緩めさせられます。手荷物は全て内容をチェックされます。全米でも一番Security checkが厳しいように思いました。September 11以降、それまではほとんどザルであった米国の空港Security checkはどこも厳しくなりましたが、それでも空港によってその厳しさの程度が全く異なります。このNew Orleans空港のSecurity checkの所で僕の前に並んだのが何と、あの僕のアジアにおける友人の一人であるSJ Park先生(Asan Medical Center, Seoul, Korea)でした。彼についてはこれまでも韓国訪問記の中で紹介していますが、まさしくアジアの生んだInterventional Cardiologyの世界スターです。実は彼も、僕の症例発表の前に、左主幹部分岐部病変に対してDCAを行ってからKissing Cypher stent implantationを行った症例を発表していたのです。しかし、まさかこんな所でお会いするとは思ってもいませんでした。Park先生はこれからデンバー経由でバンクーバーに行かれ、そこで2日間スキーをして、それからソウルに帰られる、ということでした。羨ましいな、と思いましたが、Park先生であれば許されるな、とも思いました。

United Airlineはオヘア空港のTerminal 1に到着します。空港内を走っているTramに乗って国際線があるTerminal 5に移動するのですが、ここで面白いことに気がつきました。これまで何回もこの空港を使ってきたのに、今までは全く気づかなかったのですが、Terminal 1, 2, 3, 5があり、Terminal 4が存在しません。4という数字を不吉なものと見なすのはもともと中国由来の思想の筈です。中国文化の影響を強く受けてきた日本のみならず、韓国、あるいは東南アジアの国々においても4という数は不吉なものとされ、4階が存在しなかったりします。これに対して、キリスト教においては13が不吉な数字であり、4は問題無い筈です。これらのことを考えると、シカゴには中国系の人々が多く住んでいるのでしょうか? どなたか真相をご存知の方がおられましたらご教授下さい。

米国のPCI事情

今回の米国滞在中にビッグ・ニュースが飛び込んできました。それは、ついに米国医薬食品局(FDA: Food and Drug Administration)がTAXUSを認可した、というものです。それは米国東海岸時刻にして3月4日17:30のことでした。約1年前に薬剤溶出性ステント(DES: Drug-Eluting Stent)のもう一つの雄であるCypherが認可されてから、米国のPCI事情は大きく変わりました。それは以下のようなものです。?施設によってばらつきがあるが、ステント全体の中でCypherが占める率が平均70%程度になった。?どんな病変に対してもCypherを用いる傾向になった。?今まで手をつけなかったPCI不適当病変や複雑病変に対してもPCIを行ってCypherを用いるようになった。?従って冠動脈バイパス手術に送られる症例が激減した。などというものです。

現実に、未だトレーニング段階にある若手の心臓外科医の中には将来を悲観して、循環器内科に鞍替えしようとする人々も出現してきているそうです。では数字にして具体的にどれぐらいの影響があったのでしょう。
3月6日土曜日にはACCに併設してDESのシンポジウムがありました。これに参加して色々な情報を入手しました。

この中で入手したものですが、このデータは全米500の病院でMedicareという公的保険診療を用いて治療された12,000,000人の患者さんの記録から抽出されたものだそうです。それによれば、

    
2002年一ヶ月当り
2003年一ヶ月当り
増減率
DES
32
19,548
+61,000%
BMS
57,495
39,560
-32%
Non-stent
PCI
7,177
5,574
-22%
CABG
30,334
25,691
-15%

というものでした。ちなみにBMSとはBare Metal Stentのことです。

CypherはFDAによる認可時に製造後6ヶ月間しか有効期間が認められませんでした。このため、SVCMCのカテ室にあったCypherもその有効期限は全て2004年3月ないし4月末日まででした。この有効期限を超えたCypherは、SVCMCの場合には製造元に引き取ってもらうということでした。もっともこれは病院と製造元との間の力関係に依存することだと思います。もしも有効期限切れになったCypherを植え込んだならばどうなるでしょう? 多分、安全上の問題はありません。そして、DESとしての有効性にも問題はありません。しかし、もしも患者さんに再狭窄が発生した時には、確実に患者さんから告訴され敗訴してしまう、だから絶対に用いない、というのがSVCMCの先生達のご意見でした。

Cypherに関して最大の問題はその価格です。通常米国国内ではCypherは3,000US$で販売されているそうです(ちなみにBMSは1,000US$程度、バルーンは250-300US$程度です)。米国では65歳以上の人々には公的保険制度Medicareが適用されます。このMedicareにおいては、予めDRGという疾病群毎に保険より償還される価格が決定されています。いわゆる「まるめ」というものです。このため、長期間患者さんを入院させたり、過剰な診療行為を行ったりすれば病院は赤字になりますが、効率的な診療を行えば逆に病院は大きな黒字となります。この制度は増大し続けていた米国の国民医療費の抑制に大きな効果をもたらしました。ところがCypherに関しては大きな問題があります。その販売価格は米国国内どこでも大体が3,000US$なのですが、Medicareで決められたCypherに対する償還価格には米国国内で何と2倍以上の開きがあるのです。これは、MedicareによるDESに対する加算償還価格の決定に際しては、その地域の事情(住居費や物価の違い)が考慮されているからです。ですから、一般的に、西海岸や東海岸の大都市ではその償還価格は高く、従ってCypherもコスト的に使い易いので、例えばLenox Hill病院では1.9本/人ぐらいの使用率なのですが、中部のDetroitなどではMedicareの加算償還価格が低いため、例えばWilliam Beaumont病院においてはその使用頻度は1.1本/人以下です。

また、DESの使用に際しては、ステントが血管壁に良く密着していること(Good apposition)を確認するためにIVUSの使用が好ましい、という話もあります。しかし、IVUSに関してはたった65US$しか加算償還されないため、確実に赤字になります。そのため、一般的な診療ではIVUSを用いることは絶対にありません。

このCypherに関する価格の話もTAXUSが認可されたことによって状況は様変わりすることと思います。おそらく急速にDESの価格は低下することでしょう。そうなった時には、ますますBMSの出番が無くなるとともに、他の治療法、即ち方向性冠動脈粥腫切除術(DCA)やロータブレーターの出番も減ることでしょう。そしてますます心臓外科医は仕事を失うことになるのかも知れません。

DESの効果が持続するか否かについて疑問視する向きもあります。しかし、サンパウロで4年前にCypherが植え込まれた30症例の4年後の経過が今回発表されました。この症例群は最近ではFIMとも呼ばれています。それはFirst In Manの頭文字をとったものです。それによれば、IVUSおよびQCAを用いた追跡では、若干の内膜肥厚が認められるものの、その程度はわずかであり、何と4年間を経過しても再狭窄率は0%でありました。

また、Off-labelの使用というのも話題になりました。Off-labelというのはここでは、FDAの販売承認が降りた時の適応病変、それ以外に対するDESの使用、という意味です。例えば、急性心筋梗塞に対するDESの植え込み、慢性完全閉塞病変に対するDESの植え込み、分岐部病変に対するDES植え込み、左主幹部病変に対する植え込み、大伏在静脈グラフト病変に対する植え込み、30mmを超えるような病変に対する植え込み、あるいは動脈内径2.5mm以下のものに対するDESの植え込みなどのことです。そもそもCypherの使用をFDAが許可するに至った臨床試験においては、これらの病変サブセットは初めから除外されていました。従って、FDAの許可内容の中には、これらの病変に対するCypherの使用は含まれていません。しかし、承認申請の時に示された圧倒的なCypherの威力を見れば、どんな臨床医師であっても、その成績からこれらのOff-label病変においてもCypherが絶大な威力を発揮するであろうことは容易に想像します。この日本語で言えば「適応外使用」に関しては、FDAとしては決して妨げないが、それを使用する責任は使用する医師にあり、適応外使用に伴って発生するかもしれない不利益に関して、十分なインフォームド・コンセントが為されなければならず、また何か起こった時には使用した医師が刑事罰を受ける可能性がある、とFDAの係官が宣言していました。最近、DESのOff-label使用に関して、ACC/AHAより勧告が出ましたので、それに添う型での使用が今後は前提になるのだと思います。

去年FDAはCypherの使用に伴って、数ヶ月以内のステント血栓閉塞 (late stent thrombosis)が発生する危険性を警告として公表しました。これは全米に大きなニュースとして流れ、広く一般の人々も知ることとなりました。このステント血栓閉塞に関しても、話題が多く出たのですが、これまでに行われたDESに関する前向き比較試験 (RAVEL, TAXUX, SIRIUSなどの無作為比較試験)の結果を総合すれば、DESはBMSよりも血栓閉塞症が起こり易い、というのは誤りであり、BMSと同程度の発生率である、ということが分かります。従って、FDAはその警告を撤回すべきである、という主張もなされました。実際に、PCIを行う前の患者さんに対する説明(インフォームド・コンセント)時に、矛盾する二つのことを説明せねばならず患者さんが困惑するのだそうです。もちろんその二つとはFDAによる警告と、これまでの臨床試験での成績のことです。

日本を出る2週間ぐらい前に米国のG社が、Cypherを製造販売しているJ社と販売提携を結んだ、という別の大きなニュースが入りました。これによってG社は自社製造のDESが出るまで何とかCypherを販売することによってその強力な販売促進員(Sales representatives)を失わずに済みますし、逆にJ社はその貧弱な販売力をG社によって補ってもらい、何とかTAXUXの攻勢を耐え忍ぶことができるのかも知れません。何しろ、米国の循環器医師の間ではJ社に対する評判は相当に悪いものがあります。

何れにしても平家物語のように「驕る平家は久しからず」というのが世の常なのですね。僕もこの言葉を本当に心に留めたいと思います。

帰国

途中に時間を潰したシカゴ・オヘア国際空港内のラウンジで自分のラップトップ・コンピューターをインターネットに接続したところ、もう一つのビッグ・ニュースが飛び込んできました。それは、ついに3月4日に開催された薬事・食品衛生審議会において、Cypherステントの輸入承認が認められた、というものです。ついに日本もDESの時代に突入することになりました。

終わりに

今回の12年振りのニューヨーク訪問は本当に僕の人生の中でとても大きな意味を持ちます。これまで湘南鎌倉総合病院という本当に小さな民間病院で何とか頑張ってきた、そのお蔭で今回のニューヨーク・ライブが実現できたのです。取得することが非常に困難なTemporal Medical Licenseを得るためには、Coppola先生の大きな力が必要でした。しかし、それだけでなくこれまでに行ってきた仕事、それは何かと言えば、もちろん英文で出版してきた多くの論文であり、それに伴って得ることのできたいくつかの資格、つまりFACC (Fellow of American College of Cardiology)やFSCAI (Fellow of the Society for Cardiovascular Angiography and Intervention)、またいつくかの米国医学誌のEditorial Board Memberであり、そして勿論、自分の有するPCIの技術など、その他諸々によって初めて可能だったのです。つまりそれは僕にしてみれば、この15年間にわたって鎌倉で過ごしてきた人生のある意味で集大成であったのです。

僕は自分のPCIが果たして本当にうまいのか下手なのか分かりません。何時も自分の技術に対して不安を抱いています。本当は下手なのではないのか? それであれば、そんな技術で患者さんの命を預かりPCIという危険を伴う治療を続けることは許されない、と何時も不安に思っています。その一方で、いや自分の技術は相当なもので誰よりも優れている、という気持ちも片隅ではあります。本当に分からないのです。今回、PCIを披露して、SVCMCのFellowと、そのFellow達を指導するBhambhani先生達が、僕の耳に入らない所で、「あのガイドワイヤーの動きはとてもすばらしいね」と、僕の技術を評価していたそうです。自分で最も自信のあるのは、そのガイドワイヤー操作なのです。その言葉を聞いた時には、とても嬉しく思うと共に、そういう評価が出来るアメリカの医師の技術レベルも相当高いのだな、と思いました。そのように自信に満ちた自分がある一方で、不安に慄く自分もあります。どちらかと言えば後者の方が何時も強いと思います。今回も、実際に手技を開始する迄は、そのような自分の心で怯えていました。しかしそのような時には何時も、所詮自分は自分。神様ではないのだから、所詮自分が出来ることしか出来ないのだ、と割り切ることにしています。そのように割り切ると不思議と心は平静になり、何となく光り輝くような自信で満ちてきます。そして、結局今回も、どちらかと言えば大成功の内に、全てを乗り切ることが出来ました。結局、僕にしてみればこのような事態に直面して一つ一つ乗り越えること、それが自分の技術の実態であり、それ以上、あるいはそれ以下の何物でもないのです。そしてそのように乗り越えるべき壁があるからこそ、PCIを続けていくのです。何れにしても1995年からTRIを続け、それを普及する努力をしてきたからこそ出来たことであることは間違いありません。

ホテル前の鐘
僕が始めてパスポートを取ったのは大概の人々よりも遅く、あの阪神タイガース優勝の年であり、御巣鷹山日航機墜落事故のあった1985年、それは僕が35歳の年でした。それから未だ20年も経っていません。あの当時、学会場で英語の質問が理解できずに立ちすくんだ自分、質問に立っても相手に理解されなかった自分、そんな全ての人生の中での経験の結果として、今回が成立したのです。今でもCoppola先生のニューヨーカーとしてのとても早口の英語と、外国人に対して話しているということを全く気にしない単語の使用には、ついていくのがとても辛く感じます。でも、そんな中でもアメリカ人の真只中でライブデモンストレーションを行いながら質問に答え、そして自分の意見を言うことができるようになりました。自分で自分を振り返ってみて、少しは誉めたい気持ちでいます。

まあこのような感傷に浸るのはここまでにしておきましょう。時はとても早く流れ、人生は短いものです。何時までも感傷に浸っている時間はありません。また明日から何かを目指して進みたいと思います。
ホテルの前の広場に変わった鐘がありました。鐘は日本の寺院の鐘と同じで、お経が表面に漢字で彫られていました。ただ、鐘突き棒が人間の型をした金属製のものであり、表面に金メッキがされています。試してみましたがちゃんとこの鐘は鳴らすことができました。日本であれば、面白がって次々と鳴らそうとする人々が行列を作ると思うのですが、このニューヨークでは僕以外誰も鳴らす人はいませんでした。自分の心が弱くなったら、この鐘を思い出して頭をゴチンとしたいと思います。



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