齋藤 滋が Interventional Cardiologistになるまで


東京から大阪へ
齋藤 滋は 1969年にそれまで生まれ育ってきた東京都から単身で大阪大学に入学し、1975年に同医学部を卒業し、同年4月に医師国家試験に合格しました。大阪大学教養部医学進学過程に入学した年 1969年には全国の大学キャンパスで全共闘運動が燃え盛っていました。実際、その年の大学入学試験は日本の歴上一番大荒れに荒れた年だったのです。1968年の年末から全共闘の学生が東京大学本郷キャンパスの安田講堂に立て篭もり、警視庁機動隊と激しい攻防を繰り返していました。その激しい戦いの様子は毎日のようにテレビで中継されていました。最後は警察機動隊の突入により、この立て篭もりは解除されたのですが、何れにしてもその事件の影響から、1969年の東京大学入学試験は中止となったのです。僕はもともと東京大学に入るつもりは微塵も無かった (実際には自分では無理だと認識していたから?) のですが、それでも日本の中でも学力優秀な受験生が多数あぶれて、他の大学入学試験を目指した訳ですから、その影響は甚大でした。色々考えた末、国立大学旧帝国大学の中で、社会科選択科目で僕が唯一できた「倫理社会」を受験科目として選択可能であった唯一の大学 大阪大学を受験目標として選択しました。全くの単身で宿も手配し、一人で切符を取り、一人で受験しに行きました。宿は天満橋にあった「大阪旅行会館」という所でしたが、部屋は阪大受験生相部屋で、僕は確か今治東高校から阪大に来た受験生一群の5名と8畳一間を相部屋しました。街には、石田あゆみの「ブルーライト・ヨコハマ」のメロディーが流れていたことを思い出します。その頃の情景を思い出すと、いつも「自分は何て強かったのだろう」と思います。無事に入学したものの大阪大学でも激しい学生運動が繰り広げられており、1969年4月に勇んで入学したものの、石橋キャンパスは完全に封鎖されていましたので、教養部講義が開始されたのは実に翌年1月になってからでした。結局教養部最初の学年は短縮され、3ヶ月あまりで終了しました。

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免疫学を志し
大阪大学医学部卒業後 阪大病院において、第二内科および第三内科をローテートしながら、初期研修医として医師の道に踏み出しました。当時は臨床医学にあまり興味を感ぜず、早く研究者 特に免疫学の研究者となることを夢見ていました。阪大病院での初期研修を中途で終了し、1976年4月より労働福祉事業団関西労災病院内科に就職しましたが、それでも免疫学への夢は捨てられず、大阪大学第三内科での週2回 7:00AMから 8:00AMまで行われていた若手研究者の免疫学抄読会に出席してから、関西労災病院に出勤するという基礎医学研究者 (この場合、臨床医は生活費稼ぎのため)にまっしぐらの生活をしていました。

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選択的冠動脈造影を志して
その一方で、関西労災病院でのバリバリの臨床医としての修練はとても楽しくやり甲斐がありました。当時は未だ研修制度が確立していませんでしたが、僕は自主的に救急医療、麻酔科、小外科手術、血管造影、気管支ファイバースコープなどを行い、暇があれば ICU (Intensive Care Unit)に詰めていました。そんな中である急性心筋梗塞の患者さんが救急入院して来られました。当時は「再灌流療法」という概念は無く、急性心筋梗塞に対する最先端治療法は ICU/CCUに収容し、Swan-Ganzカテーテルを挿入し、不整脈と血行動態管理を行う、というものでした。その患者さんは当時の常識であった、発症後一ヶ月以上入院し、徐々に運動負荷をかける いわゆる心臓リハビリを行いました。その最中に、運動負荷時にある種の心室性期外収縮が出現することを見出しました。僕は当時 Circulationに出版されたばかりの最新論文を読み、そのような不整脈が出れば一年生命予後が 50%を下回る、という記述を知りました。このままであれば、患者さんの命が危険である、そう考えました。冠動脈バイパス手術なり何らかの積極的な治療をせねばならない、そのように考えました。しかし当時の関西労災病院では、冠動脈バイパス手術どころか選択的冠動脈造影も行われていませんでした。当時 全世界的に 、選択的冠動脈造影は2%程度の死亡率を伴う検査とされていたのです。そこで、全データを携え、武庫川を挟んだ対岸にあり、数キロしか離れていない兵庫医科大学病院の循環器内科+心臓血管外科合同カンファランスに参加し、その場でこの患者さんに対して、選択的冠動脈造影を行い、冠動脈バイパス手術などのしかるぺき治療を行って頂くことを提言しました。しかしながら、答えは「危険なので選択的冠動脈造影はできない」というものでした。その患者さんは案の定退院後一ヶ月で突然死されたのです。この時、僕は 大学病院ですら選択的冠動脈造影をできないのであれば、自分でやるしか無い、そのように強く決意したのです。

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経皮的冠動脈インターベンションを開始
選択的冠動脈造影を開始しても苦難の連続でした。周囲に指導して下さる方は誰も存在しなかったのです。そんな中、論文を読みながら頑張りました。この時僕のお尻を押して下さったのが、小倉記念病院病院長の延吉正清先生でした。先生の励ましを背に受け、頑張ることができました。また、苦労している時に生涯の友人である、倉敷中央病院循環器科部長光藤和明先生とも友人となることができました。そのようにして選択的冠動脈造影をたくさん行った結果、必然的に経皮的冠動脈インターベンションに行き着くこととなったのです。1981年に第一例目の経皮的冠動脈インターベンション治療 (当時は、Percutaneous Transluminal Coronary Angioplasty: PTCA = 経皮的冠動脈形成術 という呼び名が一般的でした)を行って以来、経皮的冠動脈インターベンションの分野でも頑張りました。そんな時だったのです。大阪駅前ヒルトン・ホテルのロビーに大阪大学第一内科医局長から呼び出されたのは・・・

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包丁一本
僕は当時も今も、大阪大学を卒業したとはいえ、いわゆる「医局講座制」の枠に入れられることを潔しとせず、入局を拒否していました。ですから、本来は第一内科医局長といえど僕に対して何らの強制権はありません。しかし、何しろ大学の大先輩であり、しかも循環器病学の世界では世界的に有名な先生であり、しかも僕が学生時代に授業を行って頂いた大先生です。一人待ち合わせの場所に行きました。そこで言われたのは、「齋藤くん、君は大学医局の指示に従わないので、この民間病院に移動しなさい」と言うものでした。正直、第一内科医局長がわざわざ呼び出して言われる重い言葉なので、従わねば仕方あるまい、そのように考えました。そこで、質問を投げたのです、僕にとっては生死に関わるような質問でした、それは 「ところで、その病院に行っても心臓カテーテル検査はできるのですよね?」 これに対する回答は今でも忘れられません、それは 「齋藤くん、循環器病学はカテだけではないよ、包丁一本ではこの世界生きていけないよ」という言葉だったのです。この言葉を聞き、反射的に僕が決意したのは、「この先、包丁一本で生きていってやる」というものでした。

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湘南鎌倉総合病院に移動
このように強がったのですが、所詮医局講座制の中では僕一人の力はとても弱く、何よりも、医学の進歩に貢献できるような実力もありませんでした。この数年前から、大阪大学医学部の大先輩である、前の徳洲会理事長徳田虎雄先生より、勧誘がありました。 昭和の終わりの年 1988年の9月にそれまで勤めてきた関西労災病院を退職し、今だ病院建物も出来上がっていなかった湘南鎌倉総合病院に、第一号職員として10月1日付けで採用されました。それからもしゃにむに頑張りました。何しろ、初めは病院も無かったのです。何時の間にか私は、本邦におけるこの領域 (Interventional Cardiology: 介入的心臓病学)の草分けの一人となりました。同世代の Interventional Cardiologistsのほとんどが、現役を引退しています。引退せずとも、新たな領域に打って出ることを止められています。しかし、私は現在でもなお第一線で活躍し続けている医師であります。その世界でも例を見ない豊富な経験と知識により後進を指導しながら、病める方々の治療に当たっています。特に、治療困難な慢性完全閉塞病変に対する治療や、患者さんに安全により楽に治療を提供できる経橈骨動脈的冠動脈インターベンションの分野においては、世界の Interventional Cardiologyをリードし続けている立場なため、世界各国からの被招聘活動も続いています。

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