齋藤 滋が Interventional Cardiologistになるまで - 裏話


生まれ、小学校、中学校そして都立豊多摩高校時代
生まれは東京都江東区深川の社員寮だったということです。場所がら深川八幡の産湯をつかったという伝説もあります。物心付く前に杉並区天沼に転居し、そこでずっと育ちました。杉並区立第九小学校に6年間通ったのですが、戦後Baby Boomの最終学年に属していたため、小学校は人クラス55名くらいの生徒が詰め込まれ、それでいて各学年は8-9クラスもあったのです。幸いなことに一年生から毎昼食時には給食が支給され、そこにはアメリカ進駐軍から支給されていた「脱脂粉乳」を溶かしたミルク一杯と、必ず「肝油」2錠がついていました。これらは栄養素補充のために必須だったのですが、何も知らない僕には「まずい」ものでしかなく、大嫌いでした。小さい頃より好き嫌いが多く、給食で頻回に支給されていた鯨肉の食事が嫌いで、先生からは「栄養だから食べなさい」と言われても食べずに残し、毎日のように昼休み最後には廊下に立たされていたのです。辛い毎日でした。当時はテレビ放送は未だ無く、ラジオ全盛の頃でした。子どもたちにも人気のラジオ放送は毎日夕方に15分ぐらいの連続番組として放送されていた「赤胴鈴之助」だったのですが、その主人公をつとめていた俳優さんは、何と第九小学校卒業だったので、それが誇りでしたね。小学校を卒業する頃には、勉強が好きになり、クラスで一番の成績を何度もおさめるようになりましたが、それと共に近眼が進行し、メガネをかけるようになったりです。小学校を卒業し、杉並区立東原中学校に入学したのは1962年でした。1964年には東京オリンピックが開催されました。その時杉並区立東原中学校三年生でしたが、クラスではオリンピックに影響され、鉄棒が流行っていました。毎日グラウンドの鉄棒にぶら下がり一生懸命練習しました。初めは逆上がりすら出来なかったのに、最後には逆手車輪まで出来るようになりました。当時東京都公立高校は学区制というものがあり、杉並区の場合には第三学区に属していました。第三学区で東大進学率が圧倒的に良かった(確か毎年100名以上合格していたと思います)のは、都立西高校だったのですが、自分の学力では入学試験無理、と考え二番手の都立豊多摩高校を受験し、1965年から三年間通学しました。豊多摩高校は伝統的に自由な雰囲気で、自宅から高校まで余程の雨でない限り、高下駄を履いて自転車で30分ぐらいかけて通学していました。高校入学した途端、クラスの皆がとても頭が良いように感じ、自分がものすごく幼稚だと感じました。そして、すごく焦りを感じ、一生懸命勉強したのです。その結果一年生二学期の期末テストでは学年300名くらいの中で三位の成績となりました。本来が怠け者でしたので、その成績に慢心し、それからは毎日毎日ギター(クラシックとフラメンコ)の練習に明け暮れ、好きな数学と物理以外は勉強を全くせずに過ごしたのです。それと共に成績はどんどん下がり、高校三年の時には、英語、古文、歴史、地理、化学などは何を言っているのか、全く理解できなくなっていました。それでもあまり焦ることは無く、1968年の現役大学入試は、好きな工学系を目指し、東京工業大学一本だったのです。豊多摩高校の思い出の中で、忘れられない先生として、「西山 常夫」先生という体育教師がおられました。西山 先生は日本ラグビーの礎を造られた方であり、当時は日本唯一のラグビー国際審判員も兼任されていました。この先生が体育教師であられたので、豊多摩高校男子学生は3年間に渡り、ラグビーが体育授業の中で必須でした。西山 先生は、その後豊多摩高校教師を退官された後、当時創部間もない東海大学ラグビー部監督を勤められ、東海大学ラグビー部の事実上の生みの親、そして育ての親であられれましたし、東海大学体育学部教授を勤められながら、体育生理学や体育心理学に関する研究活動および論文執筆にも励まれました。残念ながら 先生は2014年にご逝去されました。だから皆あの長細いボールを用いたパス、キックの練習、それのみかタックルの練習もしました。また時にはクラス対抗で試合もしました。辛かったのですが、楽しかったです。また毎年年一回狭山の村山貯水池を一周するマラソンを行うことも必須でしたので、毎年春はマラソンに向けて生徒全員が毎週数日校舎の周りを周回させられました。

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駿台四谷予備校時代
東京工業大学入学試験では、数学・物理はほぼ満点だったと思いますが、その他の科目は皆目分かりませんでしたので、当然のことながら不合格となりました。ようやく心に焦りが芽生え始め、予備校に通うことに決めました。そして、当時一番評価の高かった駿台予備校を目指したのです。予備校といえども入学試験がありました。駿台には当時、お茶の水校と、四谷校があり、お茶の水校の方がランクが高かったのです。試験は四階に渡り行われ、二回受験したのですが、どうしてもお茶の水校合格ラインには到達せず、そこで諦めて四谷予備校に入学しました。毎朝、阿佐ヶ谷駅から中央線を満員電車の中 四谷駅まで通学しました。まじめに勉強したのですが、どうしても地理・歴史は勉強する気になれず、倫理社会を選択することにしたのです。化学は、高校時代の教科書を読み返し、勉強しました。分子量とかいう概念を全く分かっていなかったのですが、勉強しだすと「意外と簡単」という気がしてきました。問題は英語だったのです。当時予備校で友達となった、名前は忘れたのですが、その男の子から、「英語を勉強するならば、サマセット・モームの Penguin Paper Bookを辞書ひかずに読めばいいんだ」と、言われました。純真だった僕はそれを真に受け、それからあの分厚い、800ページはある、代表作「人間の絆」 (英文題名は Of Human Bondage)を辞書を使わずに読み始めました。初めは断片的にしか内容が分からなかったのですが、次第にずいぶんと分かるようになり、結局、5月から7 月にはいるまでには読み上げました。そのことを先の友人に言ったところ、「えーっ、嘘でしょ? そんなことする人いないよ」との答えにショックを受けたのですが、結果的にはこれにより英語不得手を克服しました。毎日のように東大安田講堂攻防戦がテレビで放映されていた1969年初めに行われた学力テストでは、何と四谷予備校で三位の総合成績となっていました。ちなみに入学した時には、四谷予備校1,000名の中で400番ぐらいの成績だったのです。この年、学生紛争はどんどん激しくなり、結果的に1969年の東京大学入学試験はキャンセルされました。結果的に、全国の受験生は日本中に広がったのです。僕もその影響を受け、社会科の選択科目選択が主な理由で、大阪大学医学部を目標に据えたのです。

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阪大入試合格発表
1969年3月何日かに合格通知が杉並区本天沼の自宅に届きました。自分では試験の自己採点結果から、「絶対に阪大医学部入学試験に合格した」と、試験から阿佐ヶ谷に戻るなり友人を呼び出し喫茶店で熱く語るほどに試験結果には自信がありました。しかし、やはり本物の合格通知が届けばやはり舞い上がってしまいました。入学しても、健康診断のために、大阪まで出かけねばなりませんでした。早速に、中野サンプラザの中にある「日本交通公社」今では JTBと呼ばれていますね。そこに出かけ、新幹線往復チケット(もちろん学割です)と、大阪の一泊の宿を申し込んだのです。健康診断は、中之島の阪大本部からリーガロイヤルホテルに向かって歩いてすぐの処にあった関西電力会館で行われたようにあやふやに記憶しています。そこには、医学部と歯学部入学予定者の合計 200名ぐらいが集まりました。列に並んで待っていると、次第に不安になってきたのです。「ひょっとして、医学部入試は落ちて自動的に歯学部に回され、そこに入学したのかもしれない」そんな風に不安がこみ上げてきたので、僕の前に並んでいたKという入学予定者に自分の不安を話しかけました。その時の返事は「そんなことないよ」とか言うものでした。このKが僕が阪大医学部に入学して初めてコンタクトを持った友人だったのです。これがその後大きな衝撃となることはこの時は未だ知りませんでした。

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宗右衛門町ブルース
健康診断が終わり、どうやら無事医学部に入学したらしい、と分かり緊張も取れ、その日は JTBが用意した宿に泊まることにしたのです。あの頃ですので、今のように気軽なホテルというのは無く、世の中にある宿泊施設というのは、ユース・ホステル、民宿、恋人達のホテル・旅館、旅館そして高級ホテルぐらいでした。従って、本当の意味で受験生に適した宿泊設備はいかに当時日本第二の都市であった大阪にも存在しませんでした。地下鉄を乗継、住所を頼りに辿り着いた先は、何と大阪屈指の歓楽街「宗右衛門町」だったのです。1972年に「ダークホース」が歌って大ヒットした「宗右衛門町ブルース」が世の中に出る前のことでしたが、それでも全国に、そして高校生にも「宗右衛門町」という名前は鳴り響いていたのです。僕が通された部屋は畳の6畳間で、窓の外には道頓堀川が流れていました。その宿に泊まり、そして翌日阿佐ヶ谷まで一人で戻りました。

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四畳半一間の下宿
入学確定し、入学手続きも無事に済みました。何と入学金は6,000円、一年間の学費は12,000円でした。それ以前に通学していた都立豊多摩高校の学費は月1,500円でしたので、当時の国立大学授業料というのが如何に安かったかが分かります。教養部二年間は石橋キャンパスでしたので、下宿はキャンパスの豊中側正門から歩いて10分ぐらいの所にある下宿に決めました。刀根山という小山の頂上にあり、下宿と阪大正門の間では大掛かりな土木工事が進行中でした。1970年開催予定のExpo '70に向けて、伊丹の大阪国際空港と、万国博覧会予定地の千里丘陵の間を結ぶ中国自動車道および近畿自動車道の建設でした。
下宿は細い坂道を少し降りた谷間にある小さな古い一軒家であり、80歳ぐらいのお婆ちゃんと、その息子さんが住んでおられ、角の四畳半が空いていましたので、そこを借りることにしたのです。食事無しで、一ヶ月5,000円の下宿代でした。下宿も決まり、勇んで一人で出かけました。予め机とか布団などは日通で送っておいたのです。受験で大阪駅に降り立った時は何も感じませんでした。しかし、これから少なくとも六年間住むというつもりで行ったこの時は、大阪駅に降り立つと、全く違った感覚に襲われました。
それは言いようのない違和感だったのです。大阪の大阪的な雰囲気に対する異様な違和感だったのです。大阪駅から阪急梅田駅に歩いて移動し、そこから阪急電車宝塚線準急あるいは急行に乗車すれば、20分ぐらいで豊中駅に到着します。豊中駅から刀根山元町の下宿までは一本道をずっと25分間ぐらい登っていくのです。下宿に到着し、教養部に顔出しすると、何と学園紛争のために休学の張り紙と、授業開始は追って自宅に連絡する旨、掲示されていました。それでもクラブ活動などは行われておりました。下宿に戻り、一人で四畳半に座っていると、言いようのない違和感が次第に、とてつもない寂しさに変わっていきました。「よし、明日東京に戻ろう」と、決意するには時間はかかりませんでした。翌日一人で東京に戻り、高校時代の友人達と一ヶ月ぐらい遊びほうけていたのです。

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自由な学園生活・デモ・アルバイト
1969年5月頃になると、流石に大阪大学当局も新入生をそのまま放置・放任しておくことはまずいと思ったのでしょう。「大学に集まるように」との連絡が来ました。さんざん東京で遊びほうけて一ヶ月してから戻った大阪には違和感を感ぜず、また何人かの友人が同級生に出来ました。また、高校時代の友人が二人、京都に下宿していましたので、頻繁に京都まで泊まりがけで遊びに行くようになりました。このようにして、何時の間にか、東京 vs 大阪というカルチャーの違いに順応していったのです。昼食は石橋キャンパス生協食堂に行き、Aランチなどを食べていたのですが、キャンパスに入ると機動隊員が盾を持って整列してました。そして、そこら中に催涙ガスのあの独特の匂いが漂っていました。思い出したように、全共闘のヘルメット姿が学内でもデモをしていましたし、毎月二回ぐらいは大阪市内の公園に学生が集まり、御堂筋などのデモ行進をしていたのです。僕もデモに参加するのが学生だ、と言わんばかりに、あるいはそれが楽しいから参加していました。まだアメリカはベトナム(侵略)戦争を続けていましたので、日本国内でもベ平連(ベトナムに平和を!市民運動)運動が盛んにあり、おとなしい大規模デモ行進を繰り返していました。僕が参加したデモ行進では、学生が5列縦隊なのですが、内側には機動隊員が盾と警棒を持ち、一列に並列行進するのです。当然内側には行きたくないのですが、いつの間にか内側でデモ行進をしていました。前の方で機動隊員とデモ学生が少しもめ出したのです。これに対して、「やめろよ」と叫んだところ、即座に僕の横にいた機動隊員が僕のお腹を蹴りあげてきたのです。巧みにそれを避けたところ、即座に右顎を革手袋で覆われた強い拳で殴られました。メガネは壊れ、鼻血がだらだら出てきましたが、それと同時にすっかり意気消沈し、デモの隊列から外れました。一人で電車で下宿に戻る間、強力な暴力に圧倒された自分を見つめていました。この一件からデモには参加しなくなり、すっかり学生運動から遠ざかるようになりましたが、そのかわりにアルバイトをすることにしたのです。中之島の医学部学生部に行って、アルバイト募集の張り紙を見ると、「インター大阪」という会社から医学関係の翻訳の募集があったのです。そこでそれに応募して下宿で行うことになりました。当初は英文和訳でしたが、次第に和文英訳、そして仏文和訳、独文和訳なども依頼されるようになりました。ある国立大学循環器内科の論文を英訳したこともありましたが、ほとんどは製薬会社の文章でした。翻訳のアルバイトはものすごく報酬が高く、一晩頑張れば、一ヶ月の自宅からの仕送り20,000円の何倍も稼げたのです。何となくこのような高額のアルバイトを続けることに精神的呵責を感じるようになり、数ヶ月でこのアルバイトは辞めることになったのですが、この時に会社側の申し出「同時通訳にもチャレンジしませんか? 教育しますよ」というのに、応じていればその後の僕の未来も随分と変わっていたでしょうね。

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教養課程開始してから味わった衝撃
学園紛争のため、ずっと教養課程の講義は始まらず休講状態が続きましたが、医学部では定期的に学生を集め、色々な情報提供を行っていました。このため、同級生と顔を合わせる機会もあり、徐々に同級生の友人が出来ました。Kは大きな中華料理店店長の息子さんで、数年の浪人生活の後でようやく入学できたのです。また、Aというのは比較的大きな個人病院院長の息子で、これも数年間の浪人生活の果てに入学できました。この二人を含め、何人かの友人が出来、自動車で大阪や神戸を色々と案内してもらいました。1970年1月末になり、ようやく学園紛争も収束し、教養課程講義が始まり、3月末には一年分の期末試験が行われることになりました。KやAは試験前僕の下宿に遅くまでつめかけ、試験勉強をしたのですが、あまりにも飲み込みが悪いことに驚きました。しかし、その時は「えー そんなこともあるんだな、それでも阪大に入学することもあるんだな」と、その程度にしか考えませんでした。そして月日は流れ、皆揃って教養課程二年次に進学したのです。そして、1971年4月からは揃って皆 医学部に進学できることになりました。その年の多分2月頃でしょうか? 生協食堂で昼食をとり、その近くの阪大図書館に何時もの如く新聞を読みに行ったのです。新聞を開くと第一面に衝撃の見出しがありました。「阪大不正入試事件」というものだったのです。何とこのために、同級生100名の中で10名近くが入学取り消しとなり、そのまま大学を去って行ったのです。もちろん、その中にはAもKも含まれていました。あまりの衝撃、そんなことがあるんだ、愕然としたのですが、すぐに「やっぱりね」という踏ん切りで自分の気持ちが収まって行きました。

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免疫学を志し
大阪大学医学部卒業後 阪大病院において、第二内科および第三内科をローテートしながら、初期研修医として医師の道に踏み出しました。当時は臨床医学にあまり興味を感ぜず、早く研究者 特に免疫学の研究者となることを夢見ていました。阪大病院での初期研修を中途で終了し、1976年4月より労働福祉事業団関西労災病院内科に就職しましたが、それでも免疫学への夢は捨てられず、大阪大学第三内科での週2回 7:00AMから 8:00AMまで行われていた若手研究者の免疫学抄読会に出席してから、関西労災病院に出勤するという基礎医学研究者 (この場合、臨床医は生活費稼ぎのため)にまっしぐらの生活をしていました。

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選択的冠動脈造影を志して
その一方で、関西労災病院でのバリバリの臨床医としての修練はとても楽しくやり甲斐がありました。当時は未だ研修制度が確立していませんでしたが、僕は自主的に救急医療、麻酔科、小外科手術、血管造影、気管支ファイバースコープなどを行い、暇があれば ICU (Intensive Care Unit)に詰めていました。そんな中である急性心筋梗塞の患者さんが救急入院して来られました。当時は「再灌流療法」という概念は無く、急性心筋梗塞に対する最先端治療法は ICU/CCUに収容し、Swan-Ganzカテーテルを挿入し、不整脈と血行動態管理を行う、というものでした。その患者さんは当時の常識であった、発症後一ヶ月以上入院し、徐々に運動負荷をかける いわゆる心臓リハビリを行いました。その最中に、運動負荷時にある種の心室性期外収縮が出現することを見出しました。僕は当時 Circulationに出版されたばかりの最新論文を読み、そのような不整脈が出れば一年生命予後が 50%を下回る、という記述を知りました。このままであれば、患者さんの命が危険である、そう考えました。冠動脈バイパス手術なり何らかの積極的な治療をせねばならない、そのように考えました。しかし当時の関西労災病院では、冠動脈バイパス手術どころか選択的冠動脈造影も行われていませんでした。当時 全世界的に 、選択的冠動脈造影は2%程度の死亡率を伴う検査とされていたのです。そこで、全データを携え、武庫川を挟んだ対岸にあり、数キロしか離れていない兵庫医科大学病院の循環器内科+心臓血管外科合同カンファランスに参加し、その場でこの患者さんに対して、選択的冠動脈造影を行い、冠動脈バイパス手術などのしかるぺき治療を行って頂くことを提言しました。しかしながら、答えは「危険なので選択的冠動脈造影はできない」というものでした。その患者さんは案の定退院後一ヶ月で突然死されたのです。この時、僕は 大学病院ですら選択的冠動脈造影をできないのであれば、自分でやるしか無い、そのように強く決意したのです。

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経皮的冠動脈インターベンションを開始
選択的冠動脈造影を開始しても苦難の連続でした。周囲に指導して下さる方は誰も存在しなかったのです。そんな中、論文を読みながら頑張りました。この時僕のお尻を押して下さったのが、小倉記念病院病院長の延吉正清先生でした。先生の励ましを背に受け、頑張ることができました。また、苦労している時に生涯の友人である、倉敷中央病院循環器科部長光藤和明先生とも友人となることができました。そのようにして選択的冠動脈造影をたくさん行った結果、必然的に経皮的冠動脈インターベンションに行き着くこととなったのです。1981年に第一例目の経皮的冠動脈インターベンション治療 (当時は、Percutaneous Transluminal Coronary Angioplasty: PTCA = 経皮的冠動脈形成術 という呼び名が一般的でした)を行って以来、経皮的冠動脈インターベンションの分野でも頑張りました。そんな時だったのです。大阪駅前ヒルトン・ホテルのロビーに大阪大学第一内科医局長から呼び出されたのは・・・

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包丁一本
僕は当時も今も、大阪大学を卒業したとはいえ、いわゆる「医局講座制」の枠に入れられることを潔しとせず、入局を拒否していました。ですから、本来は第一内科医局長といえど僕に対して何らの強制権はありません。しかし、何しろ大学の大先輩であり、しかも循環器病学の世界では世界的に有名な先生であり、しかも僕が学生時代に授業を行って頂いた大先生です。一人待ち合わせの場所に行きました。そこで言われたのは、「齋藤くん、君は大学医局の指示に従わないので、この民間病院に移動しなさい」と言うものでした。正直、第一内科医局長がわざわざ呼び出して言われる重い言葉なので、従わねば仕方あるまい、そのように考えました。そこで、質問を投げたのです、僕にとっては生死に関わるような質問でした、それは 「ところで、その病院に行っても心臓カテーテル検査はできるのですよね?」 これに対する回答は今でも忘れられません、それは 「齋藤くん、循環器病学はカテだけではないよ、包丁一本ではこの世界生きていけないよ」という言葉だったのです。この言葉を聞き、反射的に僕が決意したのは、「この先、包丁一本で生きていってやる」というものでした。

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湘南鎌倉総合病院に移動
このように強がったのですが、所詮医局講座制の中では僕一人の力はとても弱く、何よりも、医学の進歩に貢献できるような実力もありませんでした。この数年前から、大阪大学医学部の大先輩である、前の徳洲会理事長徳田虎雄先生より、勧誘がありました。 昭和の終わりの年 1988年の9月にそれまで勤めてきた関西労災病院を退職し、今だ病院建物も出来上がっていなかった湘南鎌倉総合病院に、第一号職員として10月1日付けで採用されました。それからもしゃにむに頑張りました。何しろ、初めは病院も無かったのです。何時の間にか私は、本邦におけるこの領域 (Interventional Cardiology: 介入的心臓病学)の草分けの一人となりました。同世代の Interventional Cardiologistsのほとんどが、現役を引退しています。引退せずとも、新たな領域に打って出ることを止められています。しかし、私は現在でもなお第一線で活躍し続けている医師であります。その世界でも例を見ない豊富な経験と知識により後進を指導しながら、病める方々の治療に当たっています。特に、治療困難な慢性完全閉塞病変に対する治療や、患者さんに安全により楽に治療を提供できる経橈骨動脈的冠動脈インターベンションの分野においては、世界の Interventional Cardiologyをリードし続けている立場なため、世界各国からの被招聘活動も続いています。

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